2011年9月5日月曜日

心に響く言葉「震災と写真家」

この記事は、震災と直接向き合った写真家の心の叫びのように響いた。
特に、「シャッターを切っても、「あの場所」 のことは、何も写ってくれない」、ではなぜ撮るのかと自問し、悩みそして吹っ切れた姿が印象的である。

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朝日カメラ2011/09
「誰かを超えた何者かに、この出来事全体を報告したくて写真を撮っている」より

畠山 直哉(はたけやま なおや、1958年 - )写真家
岩手県陸前高田市出身
1984年筑波大学芸術研究科修士課程修了

イニシャル N.H
東京から陸前高田に向かって、オートバイで出発する前の日、僕は仕事で、ある写真関係の会議に出ていました。家族に連絡がまったく取れない、現地の様子に関する情報など知人からもメディアからも何一つ入ってこない、そのような状況の中で気をもみながち臨んだ会議だったのですが、帰り際に、そこに同席していた一人の写真家が「テレビで津波の中継映像を見ていて『ああ、いまあそこに自分がいたら、いい写真が撮れたのになぁ』と思った」と語るのを聞きました。「いい写真って、たとえばどのような?」と僕が尋ねると、「例えば流される自動車とか……」と。
あまりにも正直な胸中の吐露に、あたりの温度が一瞬下がったように感じられましたが、彼の「こんなことを言っていいのかどうか……」という控えめな表情のせいもあって、場の雰囲気はやがてもとに戻りました。
写真撮影をなりわいとしている者なら、彼の「いい写真を撮りたい」という気持ちは理解できることと思います。その時じっさいに東北地方で起きていたこと、つまりそれは、日本の歴史上類を見ないような自然災害による、大量の死と破壊ということなのですが、そのような圧倒的な出来事を前にしても「いい写真を」と願うのが写真家というものなのです。
ところで、もし流される自動車の写真を間近で撮影することができたとして、そしてそのような極端にスペクタキュラーなイメージが彼にとっての「いい写真」だったとして、鑑賞者もその価値を瞬時に認めるほどだったとして、じっさいそこでは、いったいどのような種類の「良さ」が実現されているというのでしょう?
崇高の美学の議論や、イコノロジーの歴史に参加する、理性の「喜び」でしょうか? 他の人には不可能なことを成し遂げる力の「快」でしょうか? あるいはそれとも、写真の迫真性を最大限に発揮させ、いちばん肝心な瞬間を記録し、それを他の人々に伝達、共有、保存するという「美しい」貢献の精神でしょうか。

数日後、僕は見渡す限り瓦礫の荒野となってしまった、陸前高田市気仙町に立っていました。三脚を広げ、雲台にカメラを取り付けて、ファインダーを覗き、小刻みにフレーミングの修正をしていると、あの写真家の言っていた「いい写真」という言葉が、思わず知らず、頭に浮かんできます。でも、僕はなぜここにいるのだったか?それは別に「いい写真」のためなどではなかったはずです。僕がここにいるのは、ここが僕の生まれ育った場所で、僕の家族が暮らしていた場所だったからのはずです。
3月11日の大津波によって、市内を流れる気仙川の土手に建っていた僕の実家は完全に流されてしまい、姉は勤め先の広田小学校が比較的高い場所にあったので一命を取り留めましたが、母は近所の避難先で波にのまれ、無念にも命を落としてしまいました。そのすべてを知らないまま、僕は東京を出発し、雪の日本海沿岸の道を回り、情けないことに五日間もかかって、陸前高田にたどり着いたのでした。
母の火葬の日が来るのを待つ間、僕は姉と一緒に、市内矢作町の親戚の家に厄介になっていたのですが、「罷災証明書の申請用に、家のあった場所の現状写真が要る」と姉から聞き、実家のあった気仙町今泉に幾度となく戻りました。この地区で水に浸からなかった家は、わずか三軒のみで、残りの数百の建物は、まるで巨大な腕がテーブルの上を払ったようにして、すべて流失しました。地上に残っているものがほとんど何もないということは、拾ったり片づけたりするものもないということですから、生き残った住民がそこに戻る理由もなく、しばらくのあいだ町には人の影さえ見えませんでした。
地面には、家の土台だけがへばりつくように残っており、そのボルトが真新しく光っています。足腰の自由がきかなくなってきた母のためにと、姉がカを振り絞って、去年の夏に、家を建て替えたばかりだったのです。古い家の取り壊しに伴い、プレハブ倉庫に荷物を移したり、建設中は近所に家を借りて住んだり、新しい家に移って半年たっても荷物の整理が続いていたり、そんなことのたびに、僕も手伝いに帰ってきていたのですが、その二階建ての新しい家、そして内部の家具、仏壇、食器、寝具、衣類、本、アルバム、電化製品などの一切合切が、波にさらわれ一度に消えてしまいました。それらが何キロも上流まで続く瓦礫の原のどこかに紛れているのか、それとも引き波によって、遠く外洋まで運ばれてしまったのか、それは誰にも分かりません。
建物が消えてしまった町を眺めると「ここからあそこまでは、もっと遠かったはずだが?」という不思議な思いにとらわれます。視界をさえぎるものがなくなった分、空間が縮小したように感じられるのでしょう。それから確かに、別の理由もありそうです。かつて家並みに沿って歩いたり、角を曲がったり、通りを渡ったりしていたことは、たんに物理的な移動ではなかったのだということ。あの家この家、商店や製材所、そこに暮らす人々、壁も敷石も樹木も、目に映るすべての細部が、記号や意味や記憶の、心理的な空間を形作っていたのだということが分かるのです。それらすべての細部が消えてしまい、まるで道路だけが記された白地図のように町が平らになることで、空間は失われ、物理的な距離のみが残りました。距離のみに還元されてしまった町は、意外なくらい小さく見え、そのせいで悲しさや惨めさも、余計に増すのでした。

母が亡くなったにもかかわらず、周りからは「よかった」と幾度となく言われました。僕の聞き間違いでも、人非人のひどい台詞を聞かされたわけでもありません。「よかった」というのは「遺体が見つかってよかった」という意味なのです。地震後、近所の避難所に集まって、そのまま津波にさらわれた二十人ほどのうち、僕が着いた時点で遺体の確認ができていたのは、母を含めてたったの四人だけだったのですから。
肩を落とす僕と姉に向かって「よかった」と語りかける善意の人々も、本当はその言葉の響きに、不条理なものを感じていたかもしれません。でもほかに、この場にふさわしい言葉があるわけでもないのです。
テレビでは「震災にあって、大変なことも多かったと思いますが、逆によかったことは何でしょうか?」と被災者に問うリポーターもいました。リポーターは被災者の口から「人の心の温かさ」などといった、おあつらえ向きの台詞を引き出したかったのでしょうが、震災にあって「よかった」ことなど、何一つあるわけがないのです。もし誰かが「家族の遺体が見つかったこと」などと答えれば、そのリポーターは絶句したことでしょう。

屋根にしがみついたまま半日津波に翻弄され、真夜中に運よく岸に漂着し救助されたという若者に会いました。彼は僕を一泊させてくれた先生の息子で、あたたかい料理を作って僕に差し出してくれました。落ち着いた表情をした彼の外見だけからでは、そのようなすさまじい時間を過ごした人間であることなど、誰にも知ることができません。この優しい若者が、荒れ狂う黒い水の向こうに母が遠ざかってゆくのを見つめていた人間であることなど、決して誰にも想像することができないでしょう。「ここに僕の家がありました」「ここにあった写真屋さんに、去年ポートレートを撮ってもらいました(彼も亡くなってしまいました)」。個人的な歴史のよすががこの世から消えてしまったいま、すべての過去の事実は言葉にするしかなく、目に見えるものを使って人に示すことはできません。「あの場所がこんなことになってしまった」とシャッターを切っても、写るのは「こんなこと」ばかりで、「あの場所」 のことは、何も写ってくれないのです。

「いい写真」かどうかの判断に、撮影者の個人史や背景が加味されることはまれでしょう。少なくともそれが、近代写真芸術の美学を咀嚼したオトナの判断態度でしょう。撮影がどんなに困難だろうが、撮影者の境遇がどんなにたいへんだろうが、それとこれとは話が別なのです。
でも、見渡す限りの瓦礫の中で、自分や家族や知り合いのことを思うとき、そしてそれが写真にはもう写せないと覚悟をするとき、「いい写真」は、空疎な響きしか持たない言葉のように思えてくるのです。目に見えるもの、写真に写せるものの少なさに比べて、目に見えないもの、写真に写せないものの量が圧倒的すぎ、いくら歩いても、いくらシャッターを切っても、何かをおこなっている気分にさえならないのです。
ではどうして写真を撮るのか?率直に言えば、僕は誰かにその写真を見せたいというより、誰かを超えた何者かに、この出来事全体を報告したくて写真を撮っているのです。その「何者か」が、どんなものかははっきりとは言えませんが、僕が構図や色彩や光線に気を使い、できるだけ明瞭な写真を作らなければと思うとき、確かに僕は、その「何者か」が、後で困惑しないようにとの思いから、そうしているのです。

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