2011年5月23日月曜日

鎮魂詩

手を離したひと   作者:麻生直子

 二度目の波が恐ろしいちからで退いていくとき
おもわず妻の手を離してしまいました
手を離さなければ
腕にからめて掴んでいた草の根もろとも
ふたりとも引きずられてこれ以上耐えられないっと
思うよりさきに自分は踏みとどまっていて
妻の姿がずずずずーっと黒い波の闇のなかに
声もあげずに ずずずずーっと

 あの夜の津波の出来事を
問われるままに確かにそのようにいいましたが
そのころはまだ妻はわたしの首のまわりや肩にとまって
たましいのようなまろやかさで
わたしの話しにうなずいていたのです
おまえがいなければ ご飯ひとつ炊くのも一大事業なんだよな
仮設住宅にはちゃぶ台がひとつ 葬式でもらった遺影と茶碗と

 まわりの要望に応えるということは
だんだん自分自身でなくなるということ
工場を再建してもらわらなければ働くところがなくなって
みんな食べていけなくなる
たのむよ たのむよ と 頼みにされて
岬の浜辺に立派な水産加工場を建てたんだよね
借金だらけで 立派すぎるのが駄目だったんだ 派手な浴室までがうわさの種だ

 あの夜 妻の手を離して津波に呑みこまれたのはほんとうはわたしなんだ
この数日 誰もいない誰も近寄らない
閉鎖した工場は廃墟のわたしの胃の苦汁
血反吐がなまぬるく つーと 三度目の波がずずずずずーっと

「鎮魂詩四〇四人集 コールサック社」より

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